金峰山と木花咲耶姫像(背後の建物は歴史資料館)

 昭和49年5月、金峰町・宮崎の上焼田遺跡で推定6,000年前の人骨や、高橋の下小路遺跡で弥生中期の須玖式合口かめ棺(人骨一体)が発見されるなど、今までに発掘された弥生式や縄文式の土器、石器などから、古くからかなりの人々がこの地域に居住していたことが分かって来ました。
 
 上古時代、阿多・田布施一帯を吾田(あた)の国笠沙と云い、27代安閑天皇の御代謄年部屯倉(とみくら)を置いたと云われ、また推古天皇の御代に従三位兼太宰大弐蔵人頭と云う者が、今の高橋に居住し、支那と交易して財力豊富、兵力強大で大いに威勢を振るったと云う伝承が残されています。
 
 わが郷土の名前が記紀(古事記・日本書紀)に初めて登場するのは、天孫ニニギノミコトの降臨とそれに続く、ミコトとコノハナサクヤヒメのお出会い並びに結婚、そして海幸・山幸の神話の中にあります。 
 
 保元・平治の頃になって、阿多平四郎忠景が阿多の権現となり、南薩はもとより薩摩大隅に勢威を振るったが、その勢いは時に無法となり中央の平家の討伐にあい・・・
源頼朝が政権を握るに及び鮫島四郎宗家が阿多の地頭となり赴任し、阿多の地を二分して北方(田布施)に嫡子家高、南方(阿多)を次子宗景に与えた。 後年、北方地頭に二階堂氏が改補され二階堂泰行が高橋に居城、その孫は池辺に牟礼ヶ城を築いて居城・・・
 
 時は移り、島津家九代忠国の長子友久公が田布施・阿多・高橋の地を領して、田布施(亀ヶ城)に居城し、その子相模守運久(ゆきひさ)公は、伊作の領主島津忠良公(日新公)の母常盤殿を娶り、忠良を自分の子として田布施城を与えた。 運久逝去後は、忠良公が伊作・田布施・高橋・阿多を統治した。
 
 藩政時代は、阿多郷・田布施郷と唱え、地頭職のもと支配された・・・
昭和31年9月に、古来とくに密接な関係にあった阿多・田布施両村は合併して町制を施行、今日の金峰町となり現在に至っています。(現在は、南さつま市金峰町)
 
 また先年、箕作遺跡【約24,000年前の旧石器時代の遺跡】に続き、隣町の加世田において栫ノ原遺跡【約12,000年前の縄文時代草創期の遺跡】が発掘され、南九州における先進性を示す地として、注目されています。
 
 それでは、有史以来、渾然と日本の歴史に名を連ねて来た阿多隼人の出処『南さつま市金峰町』をこれからご紹介して参りましょう。
先ずは、神話のふるさと『南さつま市金峰町の史跡』をご覧ください。

 
※箕作遺跡は画像右側・上部の位置(丘陵部)に存在
箕作遺跡の発掘状況(当時)と、金峰山山頂から眺める金峰平野の眺め(この地に多数の遺跡が存在)
 ◎海濤洲(かいとうしゅう)とは、海が陸地に深く入り込んだと云う意味です。
 
 ◎金峰山由来記に、その南面に長江あり、その支流往古海濤洲渚なり。 河上に伽藍を創建す。
 
 ◎海岸(池辺門前)に舟にのせたる子が漂着したと云う伝説あり。
 
 ◎塩屋堀・竹原・京田は、従来三ケ浦と呼び、漁業を専業としていた。
 
 ◎交易船は旧万之瀬川より入港、積荷を高橋に下し、船は塩屋堀下に繋留したと云う。
 
 ◎稲葉下の水田から泥炭が出る。
 
金峰山頂から眺望する水田地帯、高橋部落から望む水田地帯は、往古入江の海であったと云われています。 また、数ある遺跡は、縄文時代の推定のなぎさ線に沿って出土しています。

 縄文時代の貝塚を訪れ、不思議に思うのは、何故こんな所にと云うことです。
遺跡の主人公たちは、海産の貝や魚を食べ、海に依存した生活を営んでいた筈だが、それにしては海岸から遠すぎるのです。
南九州の貝塚を見ても現在の海岸線とは関係なく、むしろ現在の沖積層が堆積している海岸平野のへりを取り巻くように、背後の台地のかなり奥まで分布している。
 
 縄文人たちが意識的に内陸部に貝塚を作ったとは思えないこと。 とすると、どうしても当時の海が奥地にまで入り込んでいた、と考えるしかない。
縄文時代の海岸面が現在よりも高かったことは、地理学や地質学の研究で分かっており、「縄文海進」と呼ばれている。
縄文早・前期にクライマックスを迎えた海進は、その後、気候が寒冷化するにつれて海退に向かう。
これを裏付ける様に、弥生時代、古墳時代の遺跡は、縄文時代の貝塚より更に海岸部へ進出する様になっている。
 
 また、南九州の古代史を考える上で考慮すべきは、火山の大噴火である。 日本列島の住民に大影響を及ぼした大噴火の二つが鹿児島県にあるのだから驚く。
その第一は姶良火山である。 姶良カルデラを形成した大噴火(22,000年前)、第二は鬼界カルデラの大爆発(約7,100年前)である。 これ以外にも、阿多カルデラ、池田カルデラがあり、開聞岳の数回に亘る噴火降灰は、薩摩半島南部に甚大な被害を与えている。
 
 この様な天災にもめげず、 吾田の国の人達は逞しく生きて来た。 その生活の跡が阿多・高橋両貝塚であり、上焼田・南原・下小路などの遺跡である。

             栫ノ原遺跡発掘当時の空撮

 
 栫ノ原遺跡は、鹿児島県南さつま市加世田・村原の万之瀬川と加世田川の合流地点西岸の独立丘陵上に位置する。
 
 万之瀬川は、薩摩半島を縦走する金峰山地に源を発し西流する。 この万之瀬川の分水嶺が著しく鹿児島湾(錦江湾)側に偏っているため分水嶺西方の小丘陵地を流れる諸流を集めて比較的長流となり、県内では川内川に次ぐ大川となっている。 流域には平野と丘陵が混交しており、知覧・川辺・加世田など歴史深い町が発達して来た。 河口には、串木野に源を発して野間半島基部に及ぶ日本三大砂丘のひとつ吹上浜が発達している。
 
 一方、長屋山(標高520m)、蔵多山に源を発した加世田川は、蛇行しながら北流し、迂曲しながら万之瀬川に合流する。 合流地点は河口より約5Kmのところである。 下流域は、万之瀬川が蛇行して大沖積地を形成し、金峰と加世田の穀倉地帯となっている。
 
 遺跡は、万之瀬川によって形成された沖積地の中央部に位置する独立丘陵(標高38.4m)上に所在する。 独立丘陵は、万之瀬川の下刻によって形成されたシラス台地の上に(台地は、四万十層群と入戸火砕流が形成)、薩摩火山灰やアカホヤ火山灰と云った新規火山灰が堆積したものである。 ちょうど、万之瀬川と加世田川が、この独立丘陵の周囲をめぐっており、丘陵の頂上付近からは、眼下に加世田・金峰町の市街地や平野部が一望出来る景勝の地である。
 
 万之瀬川流域の丘陵上、および丘陵傾斜地から低地にかけては、縄文時代早・前期から晩期にかけて多くの遺跡の所在が見られる。 特に万之瀬川河口に近い加世田・金峰の市街地や平野部を形成する沖積地と縁辺部の台地には、著名な大遺跡が多い。 万之瀬川右岸(金峰町)には、万之瀬川とその支流堀川に挟まれ西方に伸びる台地が発達し、その台地の先端には轟式土器を主体とする縄文時代早~前期の阿多貝塚や上焼田遺跡が存在している。
 
 また、加世田川が万之瀬川と合流する直前の標高20mの河岸段丘上には、全国的に知られた縄文時代晩期の上加世田遺跡が存在している。 更には、万之瀬川河口右岸(金峰町)の吹上砂丘内縁には、縄文時代終末期から弥生時代前期の高橋貝塚が所在している。
 
 この様に、この地は県下有数の遺跡集中地域である。
万之瀬川の満潮時の遡上限界に遺跡は存在、正面画像の小高い丘が遺跡の場所です。
   <出典>
   本頁の掲載情報は、下記資料を参考とさせて頂きました。
        金峰郷土史 上巻   編集者: 金峰町郷土史編纂委員会
                   発行者: 金峰町長  児島 高美
                   発行日: 昭和62年3月20日
                   南さつま市中央図書館 所蔵
        神話のふるさと    南さつま市金峰の遺跡  きんぽう大冒険(冊子)
                   南さつま市教育委員会 作成
        神話のふるさと    南さつま市金峰史跡処(冊子)
                   南さつま市教育委員会 作成
        村原(栫ノ原)遺跡  編集者: 加世田市教育委員会
                   加世田市埋蔵文化財発掘調査報告書(1)1977