

海上から眺める金峰山
<後述文献から、薩摩に関する文面を紹介>
日本地図を広げるまでもなく、薩摩(南西諸島を含む)は我が国の西南境界です。 これを中央史観(京都や江戸=東京からの視点)から見れば、辺境であり、田舎です。 しかし、対外的に目を転じたら、その立地は一転して有利になります。 薩摩がアジアやヨーロッパとの玄関口に位置しているからです。 薩摩は「地果て、海始まる」地だったからです。
歴史を紐解けば、古くは遣唐使や鑑真和上の来日、戦国時代には鉄砲やキリスト教の伝来、幕末にはペリー艦隊の琉球来航をいち早く察知したことなど、薩摩は多くの人間や文物・情報が往来して来たという地勢的な環境にあります。 外来の文化・技術や情報をいち早く受容・摂取すると共に、それを国内の他地域に発信・供給することも可能でした。
とくに近年は、近世の薩摩藩のあり方を「海洋国家」と云う視点で捉える考え方があります。 薩摩藩が江戸時代初めの琉球支配を契機に、中国の冊封体制と関わり、対外貿易を展開、薩摩藩は東アジアの世界と通じていたのです。 幕府が「鎖国」体制をとるなかで、薩摩はむしろ「開国」したと云えましょう。
この様に、この地は古くから、海を介し外洋と交流していたのです。 上古の昔、舟人たちは金峰山を目指し、海上を旅したことが伺えます。







南さつま市金峰町宮崎の岸元川と境川の合流地点、塘バス停のある国道270号線の西側に阿多貝塚がある。 海岸から4Kmほど内陸部に入った標高約9mの台地上にあり、縄文時代の前期を主体とする遺跡で、阿多Ⅴ類式土器(縄文前期後半)の標識遺跡でもある。 時期の特定できない方形の竪穴住居跡4基と甕棺基などと共に、大量の土器・石器が出土している。 当地は古くから貝殻が出土することが知られていたので、貝殻崎と呼ばれた。
『三国名勝図絵』(さんごくめいしょうずえ)には、この地には14・15世紀に阿多北方地頭鮫島氏の貝殻崎城があったと記されています。 2003(平成15)年3月、首相小泉純一郎(当時)の揮毫になる貝殻崎城の記念碑が建立されました。





岸元川を下り、堀川との合流地点に高橋貝塚がある。 遺跡の一部は玉手神社となっている。 標高約11mの台地の端にある弥生時代の前期の貝塚で、稲作農耕の根付いていたことがわかる遺跡である。 弥生時代前期の高橋Ⅰ式(前半)・高橋Ⅱ式(後半)土器の標識遺跡でもある。
この遺跡の特徴は、石包丁・石鎌などの稲の収穫道具の出土が多いこと、底部に籾痕(もみあと)が付着した土器や南方系と推定される丸底の土器が出土していること、南海産のオオツタノハ製の完形腕輪、ゴホウラ製の腕輪の未成品が出土していることなどである。 特にゴホウラ製の未成品が出土したことは、当時北九州で流行していた南海産貝輪の制作地、中継地の可能性が指摘されていて興味深い。




蔵王権現社の別当寺が金峰山の山腹に建てられた金蔵院観音寺で、真言宗(もと天台宗か)の寺院であった。 明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は日枝神社となっている。 1138(保延4)年の「阿多忠景寄進状案」によれば、阿多郡司忠景が祈祷料として、山野荒地を観音寺に寄進していることがわかる。





