歴史資料館内にある木花咲耶姫像

 
 <神話の原典、古事記と日本書紀の訳文を参考に掲載します。>
 
一.瓊久杵尊(ニニギノミコト)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
 瓊久杵尊は、高千穂附近を宮居とするには不適であると考えられ、もっと良い土地・広い平地を求めて、吾田笠沙之崎(あたのかささのみさき)に上陸された。 そこで地主の事勝国勝長海狭から、国土の献上を受け東の方へ移動された。 そこで東方を展望されると、そこには白い砂浜に波が静かに打ち寄せており、その向こうに金峰山の秀嶺が見えるので宮居として良い地であると思われた。
 
 進んで行かれると、気品のある美しい姫に出会わされた。 早速后(きさき)にと所望されると、姫は「それは父大山祗に相談して下さい。」と言って行かれてしまわれた。 尊は早速山角ケ岡に住む大山祗命を訪ね「私は天つ神瓊久杵尊である。 ぜひ姫を后に欲しい。」と申し出られた。
 
 大山祗命は「天つ神の申し出は有難いが、姫には岩長姫という姉がいます。 二人一緒に貰って下さるなら差し上げましょう。」と言われた。 尊は困ったが止むなく承知された。
岩長姫はその名の様に頑丈ながっしりした体格で気性も爽やかであったが、器量の方がもう一つというところだった。 昔は「岩」は丈夫な心と体と、そして長寿を意味するもので目出度い字とされていた。
 
 尊は木花咲耶姫と岩長姫を伴い、竹屋の宮に帰り盛大な祝宴を張られた。 そして岩長姫は大山祗命のもとに帰された。 命はそれを見て「お気にめさない岩長姫をおすすめして、はしたないことをした。 恥ずかしい事だった。」と後悔された。 しかし、もし岩長姫が尊の御子を産むとなれば、きっと偉丈夫で長寿に恵まれた方であろうにと、自分の不明をかこったり失望されたという。

木花咲耶姫の史跡案内
ニニギノミコトの上陸地点と云われている黒瀬海岸と神代笠沙宮の古址(宮ノ山)
神話のふる里を示す石碑・宮ノ山遺跡への登り口・山中にある皇孫瓊久杵尊に関する標札

 
二.彦火々出見尊(ほおりのみこと)の誕生 
 やがて木花咲耶姫は妊娠され月満ちて無戸室(うつむろ)に入られた。 ところが瓊久杵尊は「一度の契りではらむとは解せない。生まれる子は自分の子ではあるまい。」と疑われた。 姫は怒って「この子は正しく尊の御子です。 お疑いなら私のお産中に無戸室に火をかけて焼き払って下さい。 若し生まれた御子に異常がなければ神の子です。 疑いを晴らして下さい。」と悔しがられた。
 
 尊は無戸室に火をかけられ無戸室は焼け落ちた。 不思議にも生まれた御子にも姫にも異常は無かった。 火勢が一番旺(さかん)な時に生まれた長子に火蘭降尊(ほのすそりのみこと)と云う名をつけられた。 二番目に火明尊、三番目が火遠理尊(ほおりのみこと)である。 しかし双子であったか三つ子であったか説が分かれている。
 
 無戸室の跡は、金峰町・宮崎部落の西方万之瀬川の堤防の近くで双子池の遺跡として「双子池の記念碑」が建ててある。 又お産の時皇子の臍(へそ)の緒を竹刀で切りその竹刀を土に挿しておいたら、竹刀から根が出て一株の竹林となったと伝えられている。

万之瀬川堤防近くにある双子池の記念碑

 
三.海幸彦と山幸彦の争い  
 兄火蘭降尊は海に出て魚を釣ることが大好きで、且つ上手だったので海幸彦と云った。 弟火遠理尊は山に行き弓矢で兎・鹿・鳥などを射止めることが得意だったので山幸彦と呼ばれた。
ある日、山幸彦は兄海幸彦に、「一日で良いから兄上の釣針を貸してください。 海に行って魚を釣ってみたい。」と頼んだ。 海幸彦は「いやだ」と云ってなかなか承知しなかった。 あまり山幸彦が熱心に頼むので海幸彦もしぶしぶ承知して、弟の弓矢を持って山へ狩りに出かけた。 山幸彦は兄の釣針をかついで喜び勇んで海に出かけた。 ところが二人とも馴れない弓矢と釣針のことで一日頑張っても一羽の兎も一匹の魚も獲れなかった。 おまけに山幸彦は兄の大事な大事な釣針を魚に取られてしまった。
 
 兄海幸彦はくたくたに疲れ機嫌悪く帰って来る。 弟山幸彦は重い足を引きづって帰って来て、釣針を取られたことを伝え心から詫びた。 しかし兄海幸彦は「お前が余計なことを言うからこんなことになったのだ。 もとの釣針を返せ。 それでないと承知しない。」と怒ってどなるだけだった。
翌日、山幸彦は自分で立派な釣針を造って兄の前に差し出し、「これで勘弁してください。」と云って謝ったが、元の釣針でないといけないと見向きもしない。 山幸彦は更に千本の釣針を造って、これで勘弁してと謝るが駄目だった。
 
 山幸彦は海ばたに出て、しょんぼり佇んでいると、一人の翁が近寄って来て、「いかがなされた。」と尋ねるので、事の次第を話すと、翁は、「私が海神の処に案内します。」と言って先に立って歩きだした。 翁が海に向かって何かを呼ぶと、大きなワニが現れた。 尊はそのワニの背に乗り、綿津見神の宮殿に着くと大変な歓迎を受けた。 見るもの、聞くもの珍しいものばかり、あわせて綿津見神の娘、豊玉姫と仲良くなって瞬く間に三年が過ぎてしまった。
 
 ある時ふと故郷が懐かしくなると釣針のことを思い出したので海神に相談すると、海神はすぐ魚たちを集めて、釣針をとった者はいないかと尋ねると、一匹の魚が進み出て「あの大鯛が早くから喉に何か詰まって食事に困っている。」と話した。 海神はすぐその大鯛を連れて来させ、喉を調べると案の丈釣針がかかっていたので針を取り出し、早速山幸彦に「これでは」と見せると、山幸彦は「これです。 これに間違いありません。」と喜んで受け取った。 いよいよ暇乞いして帰ることになった時、海神は「潮満珠(しおみつるたま)と潮干珠(しおひるたま)」を土産に出して、「もし危急の時にはこの珠を使いなさい。」と使い道を教えた。
 
 山幸彦はすぐ釣針を返したが、兄海幸彦は弟が美しい豊玉姫を妃としたこともあって、弟に事毎にひどい仕打ちをして苦しめた。 その時はすぐ「潮満珠と潮干珠」を出して、兄海幸彦を苦しめ自分も助かった。 度重なる惨敗に兄海幸彦は弟の前に両手をつき「自分が悪かった。 今後は家来となってお前の身辺を護る。」と誓われた。 この海幸彦が阿多隼人の祖である。
 
四.ウガヤフキアエズノ尊と玉依姫
 海神の姫豊玉姫は山幸彦(彦火々出見尊)の御子を産むために阿多の地に来られ、尊は急いで海辺の渚に鵜の羽を産屋の屋根に葺く材料にした。 まだ屋根を葺き終わらない内にお産になった。 このことから鵜葺草葺不合尊と命名されたのである。 姫は産屋に入る前に「私のお産が終わらない内は、絶対に産屋を覗いてはなりません。」と固く約束させた。 しかし興味を持った尊は約束を破って覗いてしまった。
 
 お産がすんだ後、姫は「見苦しい姿を見られた以上、あなたの側に居るわけにはゆきません。」と云って、赤ちゃんを残し海中へ去ってしまった。 そして御子養育のため、妹の玉依姫を遣わしたのである。
 
 尊はその後、高千穂宮に帰り玉依姫と結婚、五人の皇子を得られた。 五瀬命(いつせのみこと)は良き地を求め日向の地を離れ東遷されたが、矢傷のため戦死されたので末弟、神武天皇が遺志を継ぎ、大和を平定、第一代の天皇になったと伝えられている。
 
※天孫ニニギノミコトのお目にとまり、そして妃になられたコノハナサクヤ姫こそ、この土地(阿多)の大山津見神の娘で、本名を「神阿多都比売(かむあたつひめ)」〔神は美弥、阿多都は阿多の、比売は姫 すなわち素晴らしい阿多の姫さま〕と云い、別名をコノハナサクヤ姫と云う名実共に絶世の美人で、わが郷土阿多の名を持つ、現代で云えばミス日本にあたる綺麗な方であった。
やがて、天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の御子として三柱の神がお生まれになり、その長子と末子が海幸・山幸の神話を展開するのである。

所在地: 南さつま市金峰町新山字星ヶ崎674
創 建: 年月日不詳
祭 神: 大山祗命
由緒沿革: 大山祗命は伊弉諾尊の御子で、国つ神として山野のことを支配し、一族は南九州一円に広がり、後に阿多隼人としての一大系統を作ったが、大山祗命はこの一族を率いて、新山の山角ヶ岡に居住され、一大勢力を持っていた。
 
 皇孫瓊久杵尊が、吾田長屋笠沙岬で、命の娘の神阿多都比売(木花咲耶姫命)と結ばれて妃となされたので、命は天孫の外戚となられ、神代時代のわが国の統治に非常に尽くされたのである。
 
 大山祗命の霊跡は、新山字山角の山頂200mにあって、巨岩怪石が積み重なっており、これが神代の霊跡地として今に伝えられている。 即ち盤座で古代人が御神霊として信仰崇敬した。 この盤座の直下の平坦地は、往昔命を祭った神社の跡と伝えられ、大正初期の頃までは円墳形の古墳があって、標石として自然石の塚が建てられていたそうである。 またこの周囲には多数の巨石が布置してあり、南面の崖の巨岩の下には、横穴の埋没した形跡があって、ここを横穴殿と呼び、天保以前まではお宮があって、命が都としたところと伝えられている。
 
 ここに、紀元二千六百年を記念して「神代遺蹟大山祗神遺址」の石碑が建立され、昭和15年11月10日鹿児島県指定史蹟に指定されている。
神社附近には大山祗命の御営田と伝えられている営田、御衣祓田、一町田、木花咲耶姫の遺跡である狹田(さつだ)長田、及び山幸彦の遺跡山崎があり、また同所を流れている川を鳥居川と呼んでいる。
田園の中に佇む由緒ある大山衹神社

 薩摩半島の西部、南さつま市加世田の中心部から3Kmほど南に、舞敷野(もしきの)と云う地名がある。 ここに「笠狭宮跡(かささのみやあと)」があり、その前にこの発祥碑が建っている。
 
「日本発祥の地」とは、突拍子もない命名のように思われますが、この名前は日本神話から来ている。
 
 古事記・日本書紀には、天照皇大神(アマテラスオオカミ)の孫にあたる瓊久杵尊(ニニギノミコト)が、宮崎県の高千穂より天下り(天孫降臨)、この地に笠狭の宮と呼ばれる皇居を造り、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)と結婚した・・・とある。
 
 瓊久杵尊(ニニギノミコト)は、吾田(あた)の長屋の笠狭の碕(みさき)に上陸後、朝日の直刺(たださす)国、夕陽の日照(ひてる)国、甚吉(いとよき)所と云って、ここに宮居(みやい)を建てたと云う。
後世、これを笠狭の宮と云い、この地を御座屋敷(ござやしき)と呼んでいる。
 
 この碑は戦前、鹿児島県が神話のゆかりの地として、ここを指定した時に建てられたものである。

南さつま市の西、野間半島には笠沙町があり、「神代聖蹟瓊久杵尊御上陸之地」の碑などもある。
瓊久杵尊が上陸したと云われる黒瀬海岸(神渡海岸)と笠狭宮碑  どちらも南さつま市にあります。
 
所在地: 日置市吹上町中原2263
創 建: 年月日不詳
祭 神: 大汝牟遅命、玉依姫命、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇
由緒沿革:
 大汝牟遅神社の地は、神代の昔、瓊久杵尊が、暫らく宮居とされた所であると云う伝説がある。 創建年代は不詳ですが、御祭神は大和朝廷のころ、阿多隼人と云われたこの地の御先祖さまが、この地方の未来永劫の繁栄と安泰を願い、舎人として朝廷に仕えての帰り、奈良の大和国一之宮、大神神社より大汝牟遅命(古事記の中で、大国主神の若い時の神名)と玉依姫命を勧請して大汝牟遅神社を創建された。
神社境内にある南薩一の大楠(御神木)と、往古より受け継がれてきた独特の風習(御潮とり)

 
 また、文治二(1186)年、島津初代・島津忠久は、源頼朝の鎌倉幕府の威厳を示す為、鶴岡八幡宮より清和源氏の氏神である八幡大神の応神、仲哀、仁徳天皇及び神功皇后の御神霊を遷しあわせ祀った。
尚、大汝牟遅神社は伊作島津家の宗社として歴代当主の御加護が厚く、殊に日新公・貴久・義久・義弘・家久・光久等の造営の記録が残っている。 また、明治以前までは、大汝牟遅八幡宮と称されていた。
 
御神徳:
 古典の伝えによれば、神代の昔、大汝牟遅命(大国主神)は少彦名命と協力して国土開発を始め、農・工・商業、すべての産業開発、方除、治病、禁厭、造酒、製薬、交通、航海、縁結び、子孫繁栄、子育て、文武長命、事業繁栄等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であらせられる。 殊に、病気平癒、長寿、身体健全等の祈願参拝者の多い神社です。
 
 社殿右側に有る大楠は御神木で、やさしく三度撫で願い事を念じ、体の悪い箇所はその手を当て健康を願うと良いとされる。 社殿前の銀杏の木も御神木で、左側が男性、右側が女性の方が手を当て、ご神徳を戴くと良いとされ、また、女性の方はその手を胸に当てると母乳の出も良いとされる。

大汝牟遅神社の近くにある千本楠の杜(樹齢800年以上とも)、並びに当社に伝わる伝統芸能流鏑馬
 
所在地: 南九州市知覧町郡16510番地
祭 神: 豊玉姫命、彦火々出見命、豊玉彦命、玉依姫命
    (伊勢神宮)(霧島神宮)(鹿児島神宮)(鵜戸神宮)
御系統: 天照大神--瓊久杵尊/木花咲耶姫--彦火々出見命/豊玉姫--鵜草葺不合尊/玉依姫--神武天皇
 
由 緒:
 海神綿津見神の二女あり、姉の豊玉姫は川辺に、妹の玉依姫は知覧に封ぜられることとなり、衣の郡(今の頴娃・開聞の辺り)を御出発になった。
その経路は、髪水峠(髪の毛の乱れを整えられた処)・御化粧水(この水にて化粧された)・飯野(昼食をとられた処)・宮入松(正式に行列を正し休憩された処)を経て、取違(姉妹の神様が行く手を違えられた処)にお泊りになった。
 ここで玉依姫は川辺が水田に富むことをお知りになり、急いで玄米のままの朝食をお炊きになって川辺へ先発された。 平常のように白米をお炊きになった豊玉姫は遅れてしまったので、やむなく妹姫の宰領されることになっていた知覧へ向かい、上郡に宮居をお定めになって、知覧を宰領されたと云う。
ここで姫神は民生を撫育されたのち崩御遊ばしたので、郷民は御遺徳を慕って城山(のちの亀甲城)の麓に社殿を建立し、鎮守の神として崇敬したのが、この神社の始まりであると伝わっている。
 
 のちに父神・夫神・妹神の三柱も合祀申し上げたのであるが、慶長15年(1610)時の領主島津忠充公が現在の地を寄進して、遷宮したと云われている。 当神社は一郷の鎮守の神であるが、近郷の信仰も厚く、知覧忠世の和与状に見えるように、社格は高く、地方民の精神的統一の中心であった。
多数の古文書によると、応永年間(1394~1428)・元亀元年(1570)・慶長15年・寛文11年(1671)等の造賛再興の記載がある。
本藩島津家の信仰も厚く、改築等に度々御加工を戴き、また年々祭米が奉納されている。 特に出陣の時等は、祈願祭が行われ、多数の祈願文が秘蔵されている。 また境内の夫婦銀杏は15代貴久公の御手植えと伝えられている。
 
 神社に伝わる宝物も多数で、歴代知覧領主直筆の書額をはじめ、木彫の狛犬・セレベス特有の武器である火焔型剣・また神楽面は(慶長・安永・貞享・元禄年間作等)34面に達している。
祭神に対する特殊信仰も多く、豊玉姫命は御顔形が玉の如く御立派な方で、み子をお産みの時も、産殿の屋根もまだ葺き終えないうちに、軽々と御安産遊ばれたので妊婦は、当社を信仰崇拝すれば、必ず安産で、その上美形の子を産むと信ぜられ婦人の崇拝は殊に厚い。
 また豊玉姫・豊玉彦・玉依姫は共に海を司る綿津見の神であらせられ、航海や船出の折は、当社を崇敬し護符を受けて身につくる時は、絶対安全と幸福が得られるものと、漁業の方面に特殊の信仰がある。
 
主な恒例祭:
   ☆歳旦祭  1月 1日   新しい一年の弥栄を祈願する。
   ☆春 祭  3月 2日   祈年祭(五穀豊穣祈願)
   ☆田植祭  6月 5日   豊作祈願 田之神舞奉納
   ☆夏 祭  7月 9日   国選択無形民俗文化財カラクリ人形上演
   ☆例大祭  体育の日    通称ホゼ 終日奉納武道大会
   ☆秋 祭  12月 2日  新嘗祭(豊作感謝祭)
   ☆大祓祭  12月31日  一年の祓い
 
※由緒は、古事記に記載されている内容とは趣が異なりますが、四方を山並みに囲まれた内陸部に存在することから、浦島太郎伝説で知られる依の郡の板聞(ひらきき)神社【薩摩国一之宮】の影響を受けているものと思われます。 神社の所在地は、知覧武家屋敷群、並びに知覧特攻平和会館の近く。 内陸部に在りながら綿津見の神と崇められていることは興味深い処でもある。
豊玉姫神社の鳥居・凛とした風格の豊玉姫神社・豊玉姫神社知恵の輪
拝殿を斜め横から撮影・凛とした風情の豊玉姫神社・国選択無形民俗文化財水車からくり人形でも有名
 
所在地: 指宿市開聞十町
祭 神: 大日靈貴命(おおひるめのむち)を正祀とし、他に皇祖神八柱を併せ祀られている。 
由 緒: 開聞岳を神体とする枚聞神社(開聞宮)は天災地変をしずめ、航海の安全を祈る目的で、海に面した開聞岳南麓にあった。 縁起によれば708(和同元)年の創建とされる。
9世紀、開聞岳の度重なる噴火に、朝廷は神の怒りをしずめるため封戸(ふこ)を与えたり官位を授けるなどしている。 平安時代以降、一宮(いちのみや)制度が出来ると、薩摩国の一宮となった。 しかし、中世には薩摩川内の新田(にった)神社と、薩摩国の一宮をめぐって争論が起きている。 中世は頴娃(えい)氏、近世には島津氏の信仰を受けて航海安全の守り神として尊崇された。
 
ここにも、古事記由来の伝承があります。(境内に掲げられている案内版より)
 
掲載画像の『玉乃井』の部分を拡大表示すると、以下のことが掲載されています。
 
 
 
ここの記述は、次頁  古の郷土史(古事記)に記載の <綿津見の国を訪問>◇香木でのできごと と相似すると思われます。
 
 
 
 
すなわち、 推測の域を出ませんが、古事記編纂の折り、天武天皇の舎人であった稗田阿礼(ひえだのあれ)が、当時宮中行事に参列していた阿多隼人の翁(舎人)の語り草を、天照大神に結び付け、皇家一統を画策したものと思 われます。 (更に、皇家一統には、後世の藤原氏の影響が大きいものと思われます。)
 
故に、釣針をなくした火遠理の命(山幸彦)は、竹で編んだ小さな舟で海に出たのではなく、薩摩半島の西岸(阿多隼人の本拠地)から、川辺・知覧方面を経て、開聞の地へ辿り着き、数年の後、ふる里へ帰ったことが想像されます。
 
※神様と云う人が、高千穂の峰に降りたり、山幸彦と云う人(神様)が海の竜宮へ行ける筈がありません。 ここが創作の世界では・・・
更に、高千穂の峰に降り立った神が、笠沙くんだりまで、来る必要があったのだろうか? 笠沙の地には伝承が有ることから、瓊久杵尊は海からの渡来人と云うのが、正しいのでは・・・
 
文字も古墳もない時代のことで、立証することは叶いませんが、古事記を原典に往時を読み解くと、如何に南さつまが日本発祥の地であったか彷彿するものを感じます。
今後も機会ある毎に、歴史・地勢を探り、卑弥呼は南さつまの伝承ではないだろうかと、想像を寄せるところでもあります。
枚聞神社 鳥居・枚聞神社 境内・枚聞神社 拝殿
竜宮伝説&玉手箱・境内の神馬像・神馬の由来
   <出典>
   本頁の掲載情報は、下記資料を参考とさせて頂きました。
     金峰郷土史 上巻   編集者: 金峰町郷土史編纂委員会  発行者: 金峰町長  児島 高美   発行日: 昭和62年3月20日
                南さつま市中央図書館 所蔵
     神話のふるさと    南さつま市金峰の遺跡  きんぽう大冒険(冊子)  南さつま市教育委員会 作成
     神話のふるさと    南さつま市金峰史跡処(冊子)           南さつま市教育委員会 作成
  
     薩摩藩精強無比の千年史    発行所: 株式会社 普遊舎   特別寄稿: 桐野 作人     発行日: 平成25年7月1日
                    印刷:  大日本印刷株式会社
     鹿児島県の歴史散歩      編者:  鹿児島県高等学校歴史部会  発行者: 野澤 伸平   発行日: 2013年12月30日
                                                                       1刷4版
                    発行所: 株式会社山川出版社  印刷所: 図書印刷株式会社
     ふるさと情報誌 薩摩半島   発行日: 平成19年7月23日
                発行社: ㈱ヤマトエージェンシー