海上から眺める金峰山

 
<古事記とは?>
 どこの国・地域にも、固有の神話や伝説が語りつがれています。 自分たちの住む土地がどの様にしてできたのか、祖先がどの様にして生まれたのか、そして今日までの歴史は…
それらの話は、そこに住む人々のアイデンティテイーを形成するほどに深く、心の中に染み渡っているのです。
 
 「古事記」もまた、同じ様に私たちの住む日本の古いことが描かれています。 この世の始まりから神々の誕生、日本の国土の形成、日本列島の統一、天皇の誕生、それに続く天皇の事績などが描かれています。
「古事記」は、天地の始まりから、第33代の推古天皇まで描かれていますが、全体は小さなストーリーの積み重ねで出来ています。
 
<いつ頃、何の目的で、書かれたものか?>
 「古事記」の編纂を最初に企画したのは、天武天皇(在位672~686年)である。 しかし、その存命中は完成に至らず、3代後の元明(在位707~715年)の時に、改めて完成させるよう勅命が下された。 その責任者に任命されたのが太安萬呂(おおのやすまろ)で、時に平城京への遷都が行われた年の翌年、711年9月のことだった。
 それ以前に成立していた「帝紀」「旧辞」と云う書物と、天武天皇の舎人(とねり)である稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記していた内容をまとめ、加筆修正を施したものが「古事記」である。 同書の「序」には、完成品が元明天皇に献上されたのは、712年1月のこととある。
 
 一番の目的は、天皇家による支配、大和朝廷による中央集権体制を正当化することにあったとされる。 多くの豪族がいた中で、最後まで勝ち残った一族が天皇家を名乗る様になった。 彼等の伝える神話や伝承を母体に、服属した他の有力豪族の伝える神話・伝承を結び付け、融合させてものの決定版、それが「古事記」だということも出来る。
 
 「古事記」は、上中下の3巻からなる。(上巻を神代編、中巻を人代編として二つに分ける見方もある。) 上巻に書かれているのは天皇家の祖先神を初めとする神々の話で、天地創造に始まり、イザナキの命の黄泉の国めぐりや天照大御神の天の岩戸隠れ、スサノオの命の八俣の大蛇退治、大国主の神の国譲り、天孫降臨などの有名エピソードを経て、海幸彦・山幸彦の話で終わっている。
 
 中巻には、初代天皇とされる神武から倭建の命(やまとたけるのみこと)、神功皇后などのエピソードを経て応神天皇までが描かれている。
 
 下巻は、仁徳天皇から推古天皇までを扱っている。 中巻には、系譜だけでエピソードの何もない天皇が多い。
 
この上巻の天孫降臨、海幸彦・山幸彦の話に南さつまが記載されている。 但し、「古事記」の神話は、当時、民間に広まっていた神話をそのまま書き取ったのではなく、書かれた神話であると云う指摘がある。
 
<「古事記」成立時の東アジア、及び日本の状況>
 大化の改新があったのは、645年。 その時、中国は唐王朝の二代目大宗の世にあり、朝鮮半島は北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅と云う様に、三つの国が割拠する状態にあった。 この三すくみ状態は、新羅が唐と手を結んだことにより崩れ去り、660年には百済が、668年には高句麗が滅ぼされる。
 新羅の支配を嫌った高句麗人の一部は、中国東北部に逃れ、698年、先住の靺鞨人(まつかつじん)と共に、震国(713年に渤海国と改称)を築いた。 同じ頃、唐も激動に見舞われ、一時期(690~705年)王朝が断絶。 則天武后の周王朝に変わられている。 朝鮮三国の争いに際して、大和政権は百済支持の立場を取り続け、百済滅亡の知らせを受けるや直ちに大規模な派兵を行った。 だがその甲斐もなく、663年の白村江(はくすきのえ)の海戦で大敗北を喫し、派遣軍は壊滅。 にわかに、唐・新羅連合軍が日本に来襲するのではと云う不安が高まった。
 
 そこで、いざと云う場合に備えての防衛力の強化が図られると同時に、唐にならった国家体制の整備、中央集権体制の確立に力が入れられた。 670年の庚午年籍(こうごねんじゃく、戸籍)の作成、701年の大宝律令の制定、710年の平城京への遷都なども、全てそれを目的としたものであった。
 
<中国思想の影響、並びに神話の類型>
 「古事記」には、魂呼(たまよ)びや太占(ふとまに、獣骨を使った占い)の如き、中国大陸から直接、または朝鮮半島から伝えられたと思われる風習が数多く見られる。
 更には風習だけではなく、思想についても同じことが云える。 天皇を天の神の子、天命を受けたものとする天命思想、および伊耶那岐の命(イザナキのミコト)と伊耶那美の命(イザナミのミコト)の聖婚に代表される男尊女卑、男先女後の思想などである。 こうした思想の伝達者は、中国大陸もしくは朝鮮半島からの渡来人の場合もあれば、日本から派遣された使節の場合もあったろう。 勿論、遣隋使・遣唐使が果たした役割も大きかったに違いない。
 
 神話の類型について(世界的に云えることですが、神話には類話がある。) 兎とワニの話は、東南アジア近辺に良くある話型である。
兎は地方地方で、鹿や鼠・猿になったり、すばしこい陸棲の動物なら種類は問わない。 ワニも日本では鮫だが、こちらも水棲の巨大生物であれば、何でも良い。
陸棲の方は、機転が効いてすばしっこく、水棲は愚鈍で図体だけがデカイ生物。 この図式が「古事記」の素兎の下地になっているのは、一目瞭然である。 類話は南方系の神話とされている。
 
始祖の伝承については、以下の類型がある。
太陽の光による妊娠(日光観精型):
北アジアの遊牧民の間に多く見られる話型で、鮮卑族の北魏王朝や契丹族の遼王朝の始祖伝承もこの型に属する。
卵からの誕生(卵生型):
南洋から西はインド、ヨーロッパにまで広く見られ、朝鮮半島はその北限にあたる。
 
往時の近隣諸国の始祖伝承は・・・
高句麗の朱蒙(しゅもう)神話: 「三国史記」「三国遺事」の両方に朱蒙神話が載っており、川神の娘が、太陽の光に感じて子供をはらみ卵を産む。 卵から朱蒙が孵化する話である。(高句麗の繁栄は、だいたい日本の古墳時代と重なる)
新羅の建国者である赫居世(かくきょせい)も山上に降り、卵の様な容器から生まれた。
伽耶(かや)とは朝鮮半島南端にあった国家群の総称。 加羅、伽羅とも書かれる。 伽耶の首露(しゅろ)王は、亀旨(きし)峰に天降って国を開いたと云う。
 
 日本の建国神話は、これら朝鮮諸国の神話と同じ系列につながる。 神霊が山頂に天降る話型である。 おまけに「古事記」の「久士布流多気(くじふるたけ)」と云う言葉は、首露王神話である「亀旨峰」から来ているとも見られている。

 

<さつまはアジア・ユーロッパとの玄関口>
 日本地図を広げるまでもなく、薩摩(南西諸島を含む)は、わが国の西南境界です。 これを中央史観(京都や江戸=東京からの視点)から見れば、辺境であり、田舎です。
しかし、対外的に目を転じたら、その立場は一転して有利になります。 薩摩がアジアやヨーロッパとの玄関口に位置しているからです。 薩摩は「地果て、海始まる」地だったからです。
 
 歴史をひもとけば、古くは遣唐使や鑑真和上(がんじんわじょう)の来日、戦国時代には鉄砲やキリスト教の伝来、幕末にはペリー艦隊の琉球来航をいち早く察知したことなど、薩摩は多くの人間や文物・情報が往来して来たと云う地勢的な環境にあります。 外来の文化・技術や情報をいち早く受容・摂取すると共に、それを国内の他地域に発信・供給することも可能でした。
 
<南さつまは、太古の昔から開けた地?>
 もう少し歴史を遡って見ましょう・・・
我がふる里、南さつまには高橋貝塚があります。 高橋貝塚の地は、吹上浜砂丘の内側の約2.3km地点に位置する小台地上にある。 縄文時代の晩期から弥生時代前期の貝塚で、北部九州に稲作が伝来してまもなく、この地域に稲作を含む新しい文化が伝えられていたことを示す遺物が、多種にわたって出土している。 更に南方系遺物の代表例として、南海産の貝を加工して作った貝輪(腕輪が主)が出土し、沖縄諸島などからゴホウラ貝・オオツタノハ貝などの貝殻を移入し、貝輪を製作していたことが確認されている。
 
 また、南さつま市内には、旧石器時代の遺跡・箕作遺跡(約24,000年前、旧石器人の生活)や栫ノ原遺跡(約12,000年前、縄文草創期の遺跡)をはじめ、縄文時代早・前期から晩期にかけて多くの遺跡の所在が見られます。
 
 かなり昔から、この地は開けた地で、東西南北の交流の起点だったことが伺えます。 また各種文献に阿多隼人(後世・薩摩隼人)の記述が見られることは、歴史上の事実が示すところです。

上古の昔、舟人たちが目指したであろうと思われる海上から眺める金峰山
<古事記に記載された天孫降臨の場面>

 記紀神話のクライマックスが、天孫降臨の場面だ。 瓊久杵の命(ニニギノミコト)が天下って、代々の天皇が、順次、天下を治め始める。 その起源が、天孫降臨と呼ばれている、いわゆる「万世一系」のおおもとになっている神話だ。 神の世界を人の世界に繋げる。 これが「日本」神話(古事記)の大目的である。
 
 瓊久杵の命は、幾重にもたなびく雲を押し分けて天の浮橋まで行くや、そこから一足飛びに筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に降り立った。 瓊久杵の命は、「この地は韓国(からくに・朝鮮半島)と向かい合い、笠沙の御前(みさき・薩摩半島西端の野間岬)にもまっすぐ道が通じていて、朝日がまっすぐ昇る国、夕陽が照り輝く国である。大変素晴らしい土地だ」と云うと、地の底まで届くくらい深々と掘った穴に太い柱を建て屋根が高天の原に届くほどに壮大な宮殿をつくり、そこを自分の住まいとした。 (※1)
 
 くじふるたけは「亀旨(きし)峰」のことで、朝鮮語と云う。 韓国の『三国遺事(さんごくいじ)』を見ると、伽羅(から)国には王が 亀旨峰に天降ったと云う神話がある。
天孫が降臨したのは、宮崎県の北(高千穂町)と南(霧島山・高千穂の峰)に分かれている。 伝承地のはっきりしている高千穂町の方を指すと見ることも出来るが、海幸・山幸の話が薩摩半島を舞台にするので、漠然と、南九州全体がイメージされているのも確かな様だ。 (※2)
 
 瓊久杵の命は、笠沙の御前で美しい少女と出会った。 誰の娘かと尋ねたところ、大山津見(おおやまつみ)の神の娘で名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、またの名を木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と云うとの返事。 次に兄弟姉妹について尋ねたところ、石長比売(いわながひめ)と云う姉がいると答えた。
 瓊久杵の命は、彼女をとても気に入り、その場で結婚を申し込むが、娘は即答を避け、父に聞いてみて欲しいと云う。 そこで早速、大山津見の神に申し入れたところ、大山津見の神は非常に喜び、姉の石長比売を添えて、結納の品々と共に送ってよこした。 だが、石長比売はひどい醜女(しこめ)で、妹とは似ても似つかなかった。 瓊久杵の命は、ひと目見るなり恐れをなしてしまい、姉の石長比売は即刻親元へ送り返し、妹の木花咲耶姫だけを留めて一夜の交わりをした。 (※3)
 
 いっぽう、大山津見の神は、上の娘の石長比売がそのまま送り返されたことを深く恥じ入り、瓊久杵の命に呪詛(じゅそ)の言葉を送りつけた。 そこには次の様にあった。
「わたしが娘二人を一緒に献上したのは、それなりの意味があってのことでした。 石長比売と交われば、天つ神の御子の命は、どんなに雪が降り風が吹いても、常に岩のごとく永久不変で揺るぎないものとなる。 また木花咲耶姫と交われば、木の花が咲き誇るのと同じ様に繁栄すると誓約をした上で献上したのです。 それをこの様に石長比売を返して、ただ木花咲耶姫だけを留められたからは、天つ神の御子の命は木の花の様に、はかないものになりましょう
このため今に至るも、天皇の寿命は永遠ではなくなったのである。 (※4)
 
 それから暫くして、木花咲耶姫が瓊久杵の命の前に来てこう告げた。 「わたしは子を身ごもりました。 まもなく出産となります。 天つ神の御子をこっそりと産むわけには参りません。 それでご指示を仰ぎに参りました。」 ところが、瓊久杵の命の反応は思いのほか冷たかった。「咲耶姫よ、たった一夜の契りではらんだと云うのか。 それは私の子ではあるまい。 そこいらの国つ神の子であろう。」 この冷たい一言が、咲耶姫を大胆な行動へ走らせる。
 
 咲耶姫は、「わたしの見ごもっている子がもし国つ神の子であるならば、出産の時に無事には済まないでしょう。」と云った。 そして、すぐさま戸口のない大きな産屋をつくり、中へ行った。 そして、土を塗って隙間という隙間をことごとくふさぎ、いよいよ産まれるという時になって、産屋に火をつけたのである。
 
 燃え盛る炎の中で、木花咲耶姫は3柱の子を産んだ。 この時、最初に生まれた子は、火が照り輝いている時に生まれたから、名を火照の命(ほでりのみこと)と云う。<海幸彦>隼人の阿多の君の祖神である。 次に生まれた子は火須勢理の命(ほすせりのみこと)、3番目に生まれたのは火が弱まってきた時に生まれた子だから火遠理の命(ほおりのみこと)、またの名を天津日高日子穂々手見の命(あまつひこひこほほでみのみこと)と云う。<山幸彦> 
 
 (※)南さつまには、木花咲耶姫、海幸彦、山幸彦の伝承があり、ゆかりの地もある。 然も、瓊久杵の命上陸の地と云われる伝承と神代の遺跡が、山中にある。 恐らく農耕の始まっていない狩猟時代の遺跡と思われるが、何故ここにと思われる場所です。
セカンドキャリアを機に、ふる里の地誌・遺跡を時間の許す限り探索、古事記をはじめとする文末の出典を熟読。 そこで以下の推論を得るに至った次第です。
 
①南さつまの地は、瓊久杵の命が来航する以前から、開けた地であった。 (大山津見の神をはじめとする阿多隼人の居住地、南北の交易もかなり早くから行われていた。)
 
②従って、瓊久杵の命は野間岬の辺鄙な場所に上陸して、永い年月をかけて、阿多の地へ進出したものと思われる。(上陸した一族は、石の文化を持っていたと、思われる。 鉄器や馬もか?)
 
③石長比売の件、並びに海幸彦・山幸彦の争いもあり、古墳時代が始まる前に、薩摩の地から大隅の地へ移住したものと思われる。 大隅地方には吾平山上陵(あいらさんじょうりょう)をはじめ、多くの古墳群がある。
 
④古事記の目的は、記紀神話のクライマックス=天孫降臨の場面=天皇家による支配、大和朝廷による中央集権体制を正当化することにあったとされることから、「この地は韓国(からくに・朝鮮半島)と向かい合い、笠沙の御前(みさき・薩摩半島西端の野間岬)にもまっすぐ道が通じていて、朝日がまっすぐ昇る国、夕陽が照り輝く国である。 大変素晴らしい土地だ。」と云う記述や、天孫が降臨したのは、宮崎県の北(高千穂町)と南(霧島山・高千穂の峰)等々の話は、後付けの話と思われる。
※今日でも、笠沙の宮跡(舞敷野)から眺められる景色は、将にこの詩の通りである。

意外と辺鄙な山の中にある宮ノ山遺跡(複合遺跡か?)
山中に在るドルメン・宮ノ山遺跡の説明・草生した中に在る居住地表示
ドルメン: 巨大な石を組み合わせて机形に構築した高貴な方や氏長の墳墓でテーブルストーンとも云います。
<兄弟で道具を交換>

 火照の命は海幸彦と呼ばれ、海の幸を獲って暮らしていた。 火遠理の命は山幸彦と呼ばれ、山の幸を獲って暮らしていた。 ある日のこと、火遠理の命がこんな提案をした。 狩りの道具と釣りの道具を交換してみないかと。 けれども、火照の命は乗り気でない。 重ねて3度頼んでみたが、反応は変わらず。 それでも執拗に頼み続けたところ、火照の命はようやく折れ、少しの間だけと云うことで交換に応じてくれた。
 
 胸をわくわくさせながら釣り道具を手に海へ出かけた火遠の命。 ところが、期待に反して魚は一匹も釣れず、そのうえ借りた釣り針を海の中でなくしてしまった。 一方、山へ出かけた火照の命も獲物を仕留めることができなかった。
 
 火遠理の命の顔を見るなり、「山の幸も海の幸も、やはり本来の持ち主が道具を使わないことには得られないようだ。 さあ、お互いお互い道具を返すとしよう」と云ってきたので、火遠理の命は何も包み隠さず、ありのままを正直に告げた。 それを聞いた火照の命の怒りは尋常ではなく、火遠理の命がどんなに謝っても許そうとせず、何が何でも返せ返せと責め立てた。
 
 そこで火遠理の命は身に帯びていた剣を鋳潰し、500本の釣り針を作って償おうとしたが、火照の命は受け取ろうとしない。 次に1000本の釣り針を作ったが、これまた受け取ろうとはせず、「どうしても元の針を返せ」と云うばかりだった。
 
<綿津見の国を訪問>
◇綿津見の国へ向かう 
 兄の火照の命が許してくれず、火遠理の命は困り果ててしまった。 海辺にたたずみ泣き悲しんでいると、塩椎の神(しおつちのかみ)が丁度通りかかった。
「虚空津日高(そらつひこ:山幸彦の敬称)はどういう訳で泣き悲しんでおられるのか」と尋ねられたので、山幸彦はこれまでの事情をすべて話した。 すると塩椎の神は、「わたしがあなた様のためによき謀(はかりごと)をお教え致しましょう」と云ったのである。 すぐさま竹で編んだ小さな舟をつくり、それに火遠理の命を乗せて、この後どうすべきかを教えてくれた。 「わたしがこの舟を押し流しましたら、しばらくはそのままお進みください。 その内良い潮流にぶつかるはずです。 その流れに乗って進んで行けば、魚の鱗のように並び立つ宮殿が見えて来ます。 それが綿津見の神の宮殿です。 宮殿の門の前まで辿り着きましたら、かたわらにある泉のほとりに香木(神聖な桂の木)がありますので、その木の上に登ってお待ちください。 綿津見の神の娘、豊玉毘売(とよたまびめ)があなた様を見つけ、きっと相談に乗ってくれましょう。」
 
◇香木の上でのできごと
 そこで、云われたとおり舟出すると、すべてが塩椎の神の言葉どおりに運んで行った。 火遠理の命が香木の上で待ち構えていると、やがて豊玉毘売の侍女が器を持って現れた。 水面に光がさしていたので、侍女は不思議に思い、木の上に目をやる。 すると彼女の目に見目麗しい男の姿が映った。
火遠理の命が水を所望すると、侍女は手にしていた器に水を汲んで差し出した。 しかし、火遠理の命は水には口をつけず、首にかけていた玉の緒から一つ抜き取り、口に含んだかと思うと、それを器の中に吐き出した。 すると玉はぴったりとはりつきどうしても離せなくなってしまった。 侍女は仕方なく中へ戻ると、器をそのままの状態で豊玉毘売に差し出した。
 
◇宮殿へ招かれた火遠理の命
 当然、豊玉毘売は不思議に思った。 「もしや、門の外に誰かいらしているのですか。」 そう云う豊玉毘売の問いに、侍女はありのままを伝えた。 豊玉毘売は、自分の目で確かめようと外へ出る。 火遠理の命をひと目見るなり、恋の虜になってしまう。
 豊玉毘売は急ぎ宮殿の中へ取って返し、父の綿津見の神に門の外に不思議な男がいることを知らせる。 「どれどれ」と出て来た綿津見の神はひと目で火遠理の命の素性を見破り、「この方は天津日高の御子(あまつひこのみこ)虚空津日高じゃよ」と云い当てるや、直ちに宮殿の中へ招き入れた。
 
◇綿津見の国で暮らす火遠理の命
 綿津見の神の歓迎ぶりは大変なもので、火遠理の命をアシカの皮でできた敷物と絹製の敷物を何枚も重ねた上に座らせ、贈り物やらご馳走でもてなした。 更に、頃合いを見て、豊玉毘売を妻として捧げた。 こうして火遠理の命は、それから3年ものの間、その国で豊玉毘売と暮らしたのである。
 
<意地悪な兄の克服>
◇タイの喉にあった釣り針
 3年が経った。 火遠理の命は自分がここへ来た理由を思い出し、大きなため息をついた。 豊玉毘売は心配になり、すぐにそのことを父に知らせた。 「3年も共に暮らしておりますが、これまでため息をつかれたことなどありません。 それが、今夜に限って大きなため息をつかれました。 もしかしたら、何か事情があるのではないでしょうか」
 
 綿津見の神が単刀直入に尋ねると、火遠理の命は何から何まで包み隠さず語った。 これを聞いた綿津見の神は、すぐさま海に住む大小の魚たちを集めると、「もしや、お前たちの中に釣り針をとったものはいないか」と尋ねた。  すると、タイの喉に刺さっていることがわかったので、綿津見の神はみずからこれを取り出し、洗い清めたのち、火遠理の命に渡した。
 
 この時、綿津見の神が云うには、「この針をあなたの兄君に返すとき、『この針は、おぼ鉤(ち)、すす鉤、貧鉤、うる鉤』と唱えながら、後ろ手にお渡しなさい。 そして兄君が高い土地の田をつくったら、あなた様は低い土地へ、逆に兄君が低い土地に田をつくったら、あなた様は高い土地へ田をおつくりなさい。 わたしは水を自由に操れますので、3年の間、兄君は貧窮に苦しむことになりましょう。 若しそれを恨んで攻めて来たなら、この塩盈珠(しおみつたま)を出して溺れさせ、もし許しを乞うて来たなら、こちらの塩乾玉(しおふるたま)を出して助けておやりなさい。 この様にして悩ませ苦しめてやれば良いのです。」 綿津見の神はこう云って火遠理の命に塩盈珠と塩乾珠を渡すと、鰐(わに)に命じて、火遠理の命を葦原の中つ国まで送らせた。
 
◇赦しを乞う火照の命
 火遠理の命は沢山の鰐の中で一番足の速い鰐に乗って、わずか一日で元の海岸へ帰り着く。 火遠理の命はお礼として自分が身につけていた紐つきの小刀を解いて、鰐の首にかけてやった。 火遠理の命は釣り針を綿津見の神に云われたとおりのやり方で返した。 するとどうだろう、火照の命は日ごとに貧しくなり、心もすさむばかり。 ついには火遠理の命を逆恨みして攻め寄せて来た。
 
 綿津見の神がくれた塩盈珠を使えばたちまちあたり一面水で覆われ、塩乾珠を使えばたちまちにして水が引く。 火照の命はたまらず頭を下げ、「わたしはこれから後、あなた様を昼も夜も警護する者としてお仕えしましょう。」と赦しを乞うしかなかった。 このため今に至るも、火照の命の子孫である隼人は、溺れた時の惨めな動作を演じ、また衛兵の役をして、朝廷に仕えているのである。
 
<愛する妻の正体>
◇約束を破って出産をのぞく
 火遠理の命が葦原の中つ国に戻ってからしばらくして、豊玉毘売が訪ねて来た。 「わたしはすでに見ごもっていて、まもなく出産の時を迎えようとしています。 思いますに、天つ神の子を海原で産むべきではありません。 それで、こうして出て参りました。」と云うので、すぐさま波打ち際に鵜の羽を葺き草がわりにした産屋をつくり始めた。
 
 ところが、まだ出来上がらない内に陣痛が激しくなり、耐えがたくなって来た。 そこで豊玉毘売は、「およそ異郷の者は出産の時になると、本来の姿に戻るといいます。 それでお願いですから、どうか私の姿を見ないでください。」と言い置くと、産屋の中に入り込んだ。 しかし、火遠理の命は好奇心を抑えがたく、約束を破って、中をのぞいてしまう。 この時彼の目に映ったもの、それは巨大な鰐がのたうちまわる姿だった。 火遠理の命は恐ろしくなって、思わず逃げ去ってしまった。
 
 これを知った豊玉毘売は、「わたしはいつまでも海の道を通って、ここと綿津見の宮を行き来するつもりでした。 けれども、あなたに本来の姿をのぞかれたことは耐え難い屈辱です。」と言い残すや、葦原の中つ国と海原の境を塞いで、海原へ帰ってしまい、後になって、養育係の名目で妹の玉依毘売(たまよりびめ)を遣わして来た。
この様なわけで、この時生まれた子は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)と名付けられたのだった。
 
 火遠理の命は、この後も高千穂の宮で過ごし、580歳で没した。 陵墓は高千穂の山の西にある。 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命は叔母である玉依毘売と結婚して、五瀬の命(いつせのみこと)、稲泳の命(いなひのみこと)、御毛沼の命(みけぬのみこと)、若御毛沼の命(わかみぬけぬのみこと)の4柱の神を産んだ。 若御毛沼の命はまたの名を神倭伊波礼毘古の命(かむやまといわれびこのみこと)と云う。
 
<隼人とは何者なのか>
 隼人とは、大和政権が九州南部の人々に対してつけた呼び名。 実際に彼等が大和政権に服属する様になったのは7世紀の末以降。 宮門の守衛、および行幸(天皇の外出)の際の警護が彼等の任務だった。 また、大甞祭(おおにえのまつり/だいじょうさい)が行われる時には、「隼人舞」と云う舞を演じる様に義務づけられてもいた。 隼人舞は服属の誓いを再確認するための儀式だと云われている。

舞敷野(もしきの)にある「笠狭宮跡(かささのみやあと)」と、「日本発祥の碑」
   <出典>
   本頁の掲載情報は、下記資料を参考とさせて頂きました。
    「古事記」神話の謎を解く  発行所: 中央公論新社
               発行者: 浅海 保   著者: 西條 勉
               発行日: 2011年2月25日
    面白いほどよくわかる古事記 発行所: 株式会社日本文芸社
               発行者: 友田 満   著者: 島崎 晋
               発行日: 2012年9月30日
    高句麗の歴史と遺跡     発行所: 中央公論社
               発行者: 嶋中 行雄
               著者:  東 潮 ・ 田中 俊明 
               発行日: 1995年4月25日
    図解よくわかる神社の本   発行所: 株式会社PHP研究所
               発行者: 安藤 卓   著者: 日本博学倶楽部
               発行日: 2010年12月27日
    神と歌の物語 新訳 古事記 発行社: 株式会社 草思社
               発行者: 木谷 東男  訳者: 尾崎 左永子
               発行日: 2005年11月1日
    海洋国家薩摩        発行所: 株式会社南方新社
               発行者: 向原 祥隆  著者: 徳永 和喜
               発行日: 2011年4月20日
    ハヤト・南東共和国     発行所: 春苑堂出版
               発行者: 野添 晃伸  編者: 中村 明蔵
               発行日: 平成8年3月10日
    薩摩藩精強無比の千年史   発行所: 株式会社 普遊舎
               特別寄稿: 桐野 作人  
               印刷:  大日本印刷株式会社
               発行日: 平成25年7月1日
    鹿児島県の歴史散歩     編者:  鹿児島県高等学校歴史部会
               発行者: 野澤 伸平
               印刷所: 図書印刷株式会社
               発行所: 株式会社山川出版社

               発行日: 2013年12月30日  1刷4版